ヨガや瞑想のクラスをして、ヨガインストラクターの養成もしています。
心身の不調を改善したり、健康や美を維持するヨガセラピーもしています。
ヨガや瞑想というと、スピリチュアルなイメージを持つ方もいますよね。
世界の七不思議とかスピリチュアルなものも好きでしたけど、わたしの興味は子どもの頃からサイエンス。
子どもの頃から分解したり、考えたりするのが好きでした。
そんな私の家ですが、古くは巫女家系だそうです。
なので私、祝詞をあげられます。
通った学校は仏教とキリスト教。
仏教の学校ではお経を唱えるのが朝の日課だったので、お経も覚えました。
大学では宗教学が必修で、論文を書かなきゃだったし、ヨガを勉強しにインドに行って、少しヒンドゥー教にも触れました。
特に宗教を意識したことがなかったので、自分のプロフィールを書くときになって初めて「なかなかおもしろい経歴だな」って気づいたんです。
大学の宗教学の教授が、「科学が宗教にやっと追いついてきた」って言ったとき「おー、たしかに」って思ったんですよね。
科学が全て!と、盲目的になるのは宗教を信仰するのと同じだと私は思っていて、その狭い視野から出てみると、宗教も科学もつながっているんですよね。
西洋哲学はなぜか仏教的な境地に辿り着いたみたいだし?
ポストモダンは限りなく諸法無我に近い思想だと思うし。
ポストモダン(以下コトバンク引用)現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする言葉。各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失してしまった現代的状況を指す。現代フランスの哲学者リオタールが著書のなかで用いて、広く知られるようになった。リオタールによれば、近代においては「人間性と社会とは、理性と学問によって、真理と正義へ向かって進歩していく」「自由がますます広がり、人々は解放されていく」といった「歴史の大きな物語」が信じられていたが、情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向への歴史の進歩を信ずる者はいなくなった、とされる(『ポスト・モダンの条件』1979年)。また、ポストモダンという言葉は、ポスト構造主義の思想傾向を指す言葉としても用いられ、その際はポスト構造主義とほぼ同義である。唯一の真理をどこかに求めようとする思考を徹底的に批判しようとしたデリダ、近代は自由を求め拡大したのではなく、むしろ人々の内面と身体を管理する技術を発達させたと述べたフーコーなどは、共に、近代的な物語を解体しようとした思想家として見られるからである。
(西研 哲学者 / 2007年)
諸法無我自分自身を絶対的な存在として捉えるとそこに「我」が生まれ、その我に執着するようになる。そうではなく、私たちは一切の力の中で生かされ、相対的な存在であり、変化を変化として捉え、変化そのものが自分なのだと考える。
ものすごく簡単に言うと、自分の「我」に執着しないということですね。
私的には、ヨガもサイエンスも宗教も哲学も行きつくところはみな同じだと考えています。
チャクラとかオーラとかも、ライフサイエンスに入るのかと理解し始めたらおもしろいと思いませんか。
「頭の中どうなってるの?」って聞かれることがあるので、「こんなバックグラウンドからこんな人間できました~」という自己紹介の一つに書いてみました。
ではまた次回。